藤田浩之の誤算
作:雲流 雪
終章
「あ~、え~、これから生徒諸君にとある発表を行なうことになる」
体育館の舞台の上で、頭の少々薄いおっさんが歯切れの悪いセリフを吐いている。
「あいつ、誰だっけ?」
どこかで見たことはあるが、どうも、記憶が曖昧だ。
「ばっかね~、教頭の田中でしょ」
馬鹿はお前だ。そりゃ、中学の時の担任じゃね~か。たしかに頭の上の方は似ているが……。
「たしか、教頭の鈴木先生だよ」
おお、さすがあかりだ。どうでもいいことばかり覚えている。
「え? 校長先生が鈴木で、教頭先生は中沢じゃなかったけ?」
なんだ、あかりは間違いか。
「ええ? 違うよ、校長は貞元で、鈴木は教務主任だよ」
ん? 間違ってんのは雅史か?
「えええ? 教務主任は永井だって。貞元は学年主任だよ」
……。
「だああぁぁぁーーーーー。もういい」
あんなハゲ知ったことか。
「あ、そうそう。申し遅れたが、私は学校法人来栖川の理事長、西村だ」
先に言えよ。
今までのDOTABATAは何だったんだ?
「へ? 来栖川……?」
今、来栖川って言ったのよな……。
「あら? あんた、知らないの? この学校は来栖川グループの提供で放映されてんのよ」
この馬鹿は何を言っているんだ?
「それを言うなら、来栖川グループの出資で経営されてる、でしょ」
「それよ、それ。まあ、知らないヒロよりは私のほうがマシよね」
ちっ、いちいちうるさい奴だ。知らなかったのは確かだが……。
「それよか、発表を聞こうぜ」
うむ、正論だ。
この正論の前では、志保も脆く崩れ去るしかないだろう……。
「……え~、とにかく、そういうわけで生徒諸君には落ち着いて私の話を聞いてもらいたい」
……全然、話が進んでねー。
「なぜ、私がこんなにも、この発表をするのに躊躇するのか?
それは、つまり、発表内容が君達の怒りを買うものであるからなのだが、
それが、必ずしも君達にとって悪いことかというとそうでもない。
落ち着いて聞いていれば、多くの生徒にとっては歓迎すべきものだと、私は思う」
「このおっさん、何言ってんの?」
……まあ、志保なら仕方ないかもしれないな。
「この集会が終わった後にアンケート用紙が配られる。それに発表を聞いて何を思ったかを書いて
欲しい。
それが、学校教育、ことに男女共学についての貴重な資料になるだろうことを私は信じている。
とは言うものの、それは後からつけたこじつけに過ぎない」
一体何が言いたいんだ?
「ところで、君達、カオス理論って知っているかい?」
理事長は唐突にそう言った。
一瞬、どこかから邪悪な電波が飛んできたのかとも思ったが、そうでもないようだ。
しかし、口調には無視できないものがあった。
警戒することに越したことはないだろう……。
それにしても……だ。
カオス理論だって? 発表と何か関係があるのだろうか?
「ねえ、浩之ちゃん、知ってる? カオス理論だって……」
聞いたこともなかった。
「いや……。雅史は知ってるか?」
学年で常に上位30位をキープする男だからな。
知らなかったら、俺内部雅史ポイント-1だな。
「う~ん、聞いたことはあるけど、詳しくは知らないな~」
く、なんて、あいまいな答えだ。
プラスもマイナスもできないではないか。
「そうか、誰も知らないのか……」
周りを見渡しても知っていそうなやつはいない。
「ちょっと、ちょっと、あたしには聞かないわけ?」
知っていそうにないやつNo.1が話し掛けてきた。
「ああ、聞くだけ無駄だからな」
これほど「時間の無駄」という語が適した例はそうそうないだろう。
「ふっふっふ。あんた、どうやら、私を見くびっているようね。
カオス理論だろうが、体操性理論だろうが、志保ちゃんにかかれば朝飯前よ」
「志保、それを言うなら相対性理論だと思うけど……」
「天才は細かいことを気にしないものなのよ」
なんだか、本当に頭が痛くなってきた。
「で? そのカオス理論ってのは、なんなんだ?」
「それはね~、つまり、ええっとお~~……」
「人間、素直に過ちを認めることが大切だぞ」
「う、うっさいわね~。今、私は、どうすれば凡人にも理解できるかを考えてたとこなの」
「へえへえ、それで? どうなんだ?」
「つまり~、“カオ”が志保ちゃんのように“ス”てきなのは、とっても良いこと、ってことよ」
……まさしく、時間の無駄だった。
「カオス理論というのは……。ふむ、よし、ひとつ例え話をしよう。
よく使われる話だから知っている者もいるかもしれんが……。
ここに一匹の蝶がいる。場所は、そう、北京だ。
北京にいる蝶は羽ばたいている。当然、その羽ばたきは微風を生み出す。
その微風は、あるいは、人間には感じ取れないほど僅かなものだったかもしれない。
だが、その微風は、様々な要因が重なり合い、大きな力となり、
やがて、アメリカ大陸に台風を巻き起こす、かもしれない……。
カオスというのは、日本語で混沌という意味だ。
無数の要因が複雑に絡み合っているから、その結果を予想することは出来ない。
例えば、天気予報で明日が雨になることはわかっても、学校にある桜の樹の葉っぱに、
どのように水滴があたるのかは判らない、そういうことだ。
だから、今回の件は、誰かに原因があるわけではない。
いや、この言い方は正確ではない。誰に原因があるかは誰にもわからない、これが正しいだろう。
確かに蝶は存在した。だが、蝶が起こした微風を台風へと変えたのは、誰だか判らない。
もしかしたら、ここにいる全員に少しづつ原因があるのかもしれない……」
凄かった。
さすがは理事長だ。校長を遥かに超えている。
教師という生物は、経験を積むごとにある特殊な音波を発することができるようになる者がいる。
そして、その音波の強さは担当教科、年齢、普段の生徒との交流度などによって変わってくる。
中には、新任にしてその能力を発現させる教師もいるが、それは例外だ。
むしろ、そうであって欲しい。
……とにかく、理事長の催眠音波は凄かった。
時に、生徒の忍耐力の訓練のため、とまで言われることもある校長のそれさえも上回っていた。
「前置きが長くなってしまったな。結論を言おう」
夢と現実の境界にいた生徒たちは、その言葉を合図に現実世界に戻り始めた。
なかには、完全に夢の世界にいるものもいたが、隣人達の努力により救出されつつある。
「……昨日の全校集会で発表されたことは……なんと言えばいいのか、つまり、
そう、簡単に言ってしまえば、“冗談”だ」
その言葉が、生徒たちに理解されるのは少々時間がかかった。
寝起きに近い状態の者が多いから、それは仕方のないことだったかもしれない。
ここに、理事長の言う“蝶”である藤田浩之という生徒がいる。
……冗談?
「冗談だってよ……」
すべては、冗談だったのか?
もし、そうなら……、これに比べれば、志保ちゃん情報もかわいいもんだな……。
「“じょうだん”ってナニ?」
あかりが何か言ってる。
「昨日の夜はなんだったんだろうね……ふふふ」
さすがの雅史も殺気を孕んでいる。
「……」
志保が無言だ。相当ショックだったんだろう。
珍しい。心のアルバムの1ページに加えておこう。
「……」
ん?
読者には上の志保のセリフとの違いが全く判らないだろうが、俺には判った。
この声は……
「先輩?」
声のしたほうを見てみると、やっぱり、先輩だった。
「………」
「ああ、すっごい驚いたよ」
先輩はなんだか満足そうな顔をした。
「…………」
「おもしろかったですかって?
いや、おもしろいとかおもしろくないとかそうゆうもんじゃなかったと思うけど……」
う、先輩の表情が暗くなっていく……。
おもしろかった、と答えたほうがよかったんだろうか……?
「……」
「残念? それってどういう……?」
「…………」
「先輩が考えた? この冗談を?」
「…………………」
「え? 綾香にも手伝ってもらった? いや、そうじゃなくて、いったいどうしてこんなこと……」
「…………」
「俺が、先輩の冗談を聞きたいって言った? そうか……それで……」
なんていうか……一途だな、先輩って。
でも、先輩の冗談はスケールが大きすぎる。
ここまでくると、文字通り、冗談じゃ済まない、って感じだ。
……今後は控えてもらうことにしよう。
そう思ったとき、
「ヒロ、原因はあんただったのね」
いつもと目が違った。
「浩之ちゃん、もう、帰ろうか……」
笑顔が凍っている。
「サッカー部に入る気ない? 浩之はキーパーに向いていると思うんだけど……。
サッカーに怪我はつきものだけど、その時は僕が看病するから……」
普通は逆だろうが、俺はなぜか後半のほうが恐かった。
「せ、先輩。今日こそ、一緒に帰らない?」
こくこく
「よし、善は急げだ」
俺達は逃げるように、(本当に逃げていたのだが)その場を去った。
ほどなくして、先輩と一緒にリムジンに乗りこむ。
ちょっと前までは、考えられなかったことだが、
あの1件以来、セバスも俺にあれこれ言わなくなっていた。
まあ、当然だろう……。
あの時、俺は死にかけた、というより、むしろ、死んだのだから……。