「スティーブ・ジョブズのスピーチ@2年前のスタンフォード大学卒業式」へのリンクを貼っておく。
Steve Jobsのスピーチ、山口訳
16年に及んだ学生生活もとうとう終わり。
大学で、というかここ数年で学んだことを少し書いておく。
おそらく人によっては小学生頃からごく自然に感じ取るようなことだから読む人によっては何を今更感がすると思うが。
まず、社会がホンネと建前で出来上がっていること。
まあ「知識」としては知ってたけど、こういうのは実感として知らないと知っているとは言えないでしょう。
そして、これを深く実感したのは大学に入ってからだった。
ずっと観念的な世界で生きてきた(このこともその時気付いた)自分には衝撃的だった。
中学生の頃くらいまでなら義憤にかられていたかもしれない。
けど、そういう風にしないと(幻想かもしれないけど)社会が成り立たないんじゃないかということも同時に考えた結果、大人になるってのはそういうことを受け入れることなんじゃないかと思ってみたり。
二つ目は階級や階層の話。
これらは高校の時にも感じたけど、大学に入ってからはバイト先とのコントラストもあってかより強く感じることがあった。
「住んでる世界が違う」とまでは言えないけど、世界の見え方は確実に違っていると思う。
まあ、自分の場合はどちらにいても偶に居心地の悪さを感じることがあるんだけど。
余談だけど、この辺を意識しながら2chを見るとなかなか面白い。
そういえば、早慶上智あたりの自己肯定感・万能感・上昇志向的なものも興味深かった。
これは就職活動を通じて感じたんだけど……これ以上あれこれ言うと何か暴論になってしまいそうなのでやめておく。
最後に最近考えた話を少し。
かなり端折ってるので、行間読むのが大変かもしれない。
「希望格差社会」ってよく言われるけど、自分が考えるに希望というより意欲の差なんじゃないかと思う。
希望と意欲は鶏と卵の関係なのかもしれないけど。
より正確を期すなら「意欲→計画→実行」のプロセスができるかどうか。
で、この回路をうまく働かせられるか如何は幼少時からの経験にかかっているんじゃなかろうか。
これがポジティブフィードバックの連鎖なら希望・自己肯定感・万能感につながって、ネガティブフィードバックの連鎖なら絶望・自己否定感・無力感につながる、みたいな。
こうした思考様式を覆すのは容易ではなさそうなので、不幸(?)にも負の連鎖にはまってしまった方々は気の毒だと思った次第。
まあ、これは仮説ですらない思いつきに過ぎないわけで、それであれこれ悩むのもどうかと思うけど。
話が前後してしまうけど、背景として自分は基本的に自己責任マンセー派です。
しかしながら、自己責任の行動の源泉である思考様式が、こういった幼少期の経験という自分ではコントロールできない部分に規定されてしまうとすれば自己責任論というのは「正義」になりえないなとかそんなことを思いました。
でも、ここでいう「正義」ってニーチェの言う「奴隷道徳」かもしれないとか、同じくニーチェの「道徳的現象などというものは全く存在しない。むしろ、現象の道徳的解釈のみが存在する」なんて言葉を思い出し始め、思考は発散し、結局は価値観の問題だってことに落ち着き、こんなことを考えてる暇があったら自分のために使ったほうがいいんじゃないかと思い直すが、なんとなく納得がいかず、考えを振り返ってみるループ。
Steve Jobsのスピーチ、山口訳
16年に及んだ学生生活もとうとう終わり。
大学で、というかここ数年で学んだことを少し書いておく。
おそらく人によっては小学生頃からごく自然に感じ取るようなことだから読む人によっては何を今更感がすると思うが。
まず、社会がホンネと建前で出来上がっていること。
まあ「知識」としては知ってたけど、こういうのは実感として知らないと知っているとは言えないでしょう。
そして、これを深く実感したのは大学に入ってからだった。
ずっと観念的な世界で生きてきた(このこともその時気付いた)自分には衝撃的だった。
中学生の頃くらいまでなら義憤にかられていたかもしれない。
けど、そういう風にしないと(幻想かもしれないけど)社会が成り立たないんじゃないかということも同時に考えた結果、大人になるってのはそういうことを受け入れることなんじゃないかと思ってみたり。
二つ目は階級や階層の話。
これらは高校の時にも感じたけど、大学に入ってからはバイト先とのコントラストもあってかより強く感じることがあった。
「住んでる世界が違う」とまでは言えないけど、世界の見え方は確実に違っていると思う。
まあ、自分の場合はどちらにいても偶に居心地の悪さを感じることがあるんだけど。
余談だけど、この辺を意識しながら2chを見るとなかなか面白い。
そういえば、早慶上智あたりの自己肯定感・万能感・上昇志向的なものも興味深かった。
これは就職活動を通じて感じたんだけど……これ以上あれこれ言うと何か暴論になってしまいそうなのでやめておく。
最後に最近考えた話を少し。
かなり端折ってるので、行間読むのが大変かもしれない。
「希望格差社会」ってよく言われるけど、自分が考えるに希望というより意欲の差なんじゃないかと思う。
希望と意欲は鶏と卵の関係なのかもしれないけど。
より正確を期すなら「意欲→計画→実行」のプロセスができるかどうか。
で、この回路をうまく働かせられるか如何は幼少時からの経験にかかっているんじゃなかろうか。
これがポジティブフィードバックの連鎖なら希望・自己肯定感・万能感につながって、ネガティブフィードバックの連鎖なら絶望・自己否定感・無力感につながる、みたいな。
こうした思考様式を覆すのは容易ではなさそうなので、不幸(?)にも負の連鎖にはまってしまった方々は気の毒だと思った次第。
まあ、これは仮説ですらない思いつきに過ぎないわけで、それであれこれ悩むのもどうかと思うけど。
話が前後してしまうけど、背景として自分は基本的に自己責任マンセー派です。
しかしながら、自己責任の行動の源泉である思考様式が、こういった幼少期の経験という自分ではコントロールできない部分に規定されてしまうとすれば自己責任論というのは「正義」になりえないなとかそんなことを思いました。
でも、ここでいう「正義」ってニーチェの言う「奴隷道徳」かもしれないとか、同じくニーチェの「道徳的現象などというものは全く存在しない。むしろ、現象の道徳的解釈のみが存在する」なんて言葉を思い出し始め、思考は発散し、結局は価値観の問題だってことに落ち着き、こんなことを考えてる暇があったら自分のために使ったほうがいいんじゃないかと思い直すが、なんとなく納得がいかず、考えを振り返ってみるループ。